「・・美しい・・国へ」というタイトルを聞いたとき、個人的にはショックであった。
というのも、「美しい」という言葉が、私の建築研究・思考のひとつのテーマだったからである。
もう一つの理由が、政治家が、この不確かな、「美しい」という言葉を使う危さゆえである。
「美しい」建築でなければ、建築は決して残らない、長く使われない、と考えたのが、「美しい」を考え始めた、その理由である。
建築にとって、「美しい」とは最も古めかしいテーマであり『ローマ時代の建築家、ウィトルウィウスが著した、現存する最古の建築理論書「建築書(建築論、建築十書とも)」によると、用(utilitas)・強(firmitas)・美(venustas)を兼ね備えることが求められる』wikipediaよりとされ、西洋建築史の桐敷先生の授業でもそう習った記憶がある。
しかし、近代建築においては、用・強に徹することが、美を生み出す、とされた。すなわち、計画と構造・ディティールに徹すれば、生みだされる建築は、美しくなるのは必然である、とも解される。
その後、ポストモダンのモダンのムーブメントは装飾の復権であろう。デ・コンストラクションは、規定の構造の見直し。プログラミングなどの考え方の潮流は、計画の見直し、経済的視点の導入と解されまいか。環境配慮の建築もひろい意味では、計画の一環である。近年のPCによる複雑化・曲体の建築は、また、別の範疇に・・新たな潮流ではないかと思うのであるが・・これは別に良く考える必要があるように思う。
いずれにせよ、現在でも、実務に入ると、「用・強に徹することが、美を生み出す」という考え方は絶大である。設計者側にのみ絶大なのではなく、発注者・施工者に絶大な支持があるのである。
そして、その近代の思想によって生み出された、現代の建築・都市が、現在美しくなったか?といえば、答えはノーではなかろうか。
東京を見渡せば、高層ビルが見事に乱立する。朝日新聞の音楽展望で高層ビル群を墓標である渡渉していたのを思い出す。
(改めて調べてみると「だが、ここ、東京・六本木の高層ビルからの眺めは、私にそれを許さない。この醜悪な茸の群れのような建物の墓石が私の前に立ちふさがっているのだ。」音楽展望 吉田秀和(朝日新聞20/07/2009の記事)
地上に降りて、そのビルを見上げてみると、石・ガラスという高価な材料が不断に使われているのだが、どこか薄っぺらい。
地方に目を向ければ、商店街はシャッター街ばかりで、幹線道路沿いは看板建築のオンパレード、住宅街といえばこれまた、メーカー住宅と分譲住宅の軽るーい住宅が立ち並ぶ。せめて公共建築はと目をやれば、これまた都会のビル建築と変わらぬ高価であるが薄っぺらい、全国どこも金太郎飴だ。
悪口ばかりだが、近代建築の美しい建築も多い、しかしながら、作られた全体像としては、決して美しい街・建築とは、到底言えないのが実体であろう。
そのように考えると、「美しい」とは、「何か」から問い直さねばならないのである。
とりあえず、インターネットの検索見ない時代、ヘーゲルの「美学講義」あたりから、「美」をテーマにした本をとぼとぼ読み重ねてきたのであるが、・・皆さんのご期待通り、やっぱり「よくわからない!」。そんな明確な答えはない。以前より、建築をテーマにぼんやり自らの美しい建築とやらの像見出しているような気はするのだけれど・・。
だから「美、美しい」というのは人類にとって永遠のテーマなのであるのだと。
そこで、政治家 安部晋三の「美しい国へ」である。
私は、具体的な国土政策として、「美しい」国土を動作るかという、建築・土木・経済にも踏み込む、提言の書かとも、早合点した。
さらに、保守本流、過激に言えば右派本流の安部晋三が、「美しい」という使うと、どうも太平戦争当時、「美しい日本のために」といって動員された兵士(体験がない世代だからその日本軍の宣伝映画でによって、たぶん記憶に結び付けられているのであろうが)を想像し、どうもこの本に対するアレルギーが出てしまっていた。
そんなことで、興味はあったが、この本から意図的に避けていてしまった。といって、出版が2006年(平成18年)であるから、すでに7年も前、例によって、古本屋さんで並んでいるのを見て読んでみようかなと。
これが、この本を手に取ったきっかけである。
(前段が、ながくなってしまった!これから本論?)
読んでみると、まったく、期待したものとは外れていた。
「美しい」という言葉が出てくるのは、ただ1ヶ所。最後ページ、「私たちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国だ。そして、まだまだ大いなる可能性を秘めている。」(p228)。
前段は、祖父岸信介の思い出と本人の体験に基づきながら、彼の系譜と国家像・日米同盟と、保守本流のお決まりの話が続く。そして中国・アジアの現状解説。後段は、サッチャー・レーガニズムを基礎とし、少子国家像として年金の話と、旧来の家庭の再生を基本とした教育再生の話というところか。家庭の再生も観念論で、新鮮味がないような・・こんな話はPTAに関わったことでで飽き飽きしている。
年金では、「年金一元化で官民格差をなくす」と、教育では「競争がフェア」な社会と「再チャレンジ可能な社会」が、目を引くところか。といって、いまや新機軸でもないと思いますが・・。
と、いう感じで、イメージ・私の思い込みは見事に裏切られたのです。
安部内閣が発足当時、テレビの討論会などで、首相の日本の設計図として、この本をテレビキャスターも一緒になって、持ち上げて議論・宣伝していたよう記憶があるのですが、なんだったんだろう?って思ってしまうのです。
なぜって、そこには具体的な提言は、ないといってもいいんじゃないかな。つまり、組織をこのように変えてとか、制度をこの目的のためにこのように変えてとか、見えないのですから。
小選挙区制によるポピュリズムの上昇気流にうまく乗った小泉政権に続く内閣として、発足した安部政権。いま、読み直すと、あまり深いことには関わらず、なにやら、ポピュリズムを意識した著作のようにも思える。
蛇足、政治家本
政治家の書いた本を私の書棚から探すと三冊。
新・都市土地論 菅 直人 1988/12
日本改造計画 小沢 一郎 1993/5/21
小さくともキラリと光る国・日本 武村 正義 1994/01
これらは、私が勤め始めて数年の頃、政治家の本が少しはやった時期かと思う。田中角栄の日本列島改造論を除けば、政治化が本を書くなんてしなかった頃、ちょっと私にとっては鮮烈であった。
なぜかって、著作で自分の国家のビジョンを描いてそれを説く。それって、すごくすばらしいことと思えた。国会の方便や、演説だけでは、全体像なんて、よくわからないじゃないですか。政治家なら国の設計図をきちんと提示すべきでは、ってね。
建築家もそうあらねばならぬ!なんて、思ったりした。今でも、そう思ってるんですけど。
そして、今思えばバブル経済絶頂期なんですね。
はじめの著者 菅 直人は、首相まで上り詰め、無能者扱いをされて降りてしまった。その真の評価は、歴史にゆだねるか、ゆだねるまでもないかは・・どうでしょう。
そのタイトルは「新・都市土地論」土地が高騰したバブル期で、タイムリーなテーマといえばタイムリー。しかし、・・首相になって批判されてのは「市民運動化上がりで、ビジョンが見えない」ってことだろうから、テーマが確かに国家の設計図としてはあまりにも狭すぎで、今を暗示していたかもって。
次は小沢 一郎。裏金・献金、寝業師というダーティーなイメージいまや定着しちゃった。でも、小沢氏を押す声があるのは、やっぱりこの一冊「日本改造計画」なんじゃないかと思う。
題名からして師匠の日本列島改造論の延長上にあるのかも知れないが、国の目標・方向性を示して、機構・組織・制度をどのように変えたいのかまで、踏み込んでいる。いま、読み返してみると、提案されてた小選挙区制は実現したが、結果は失敗しているようにも思えるし、機構・組織・制度も今ひとつはっきりしていないようにも感じる。
でも、全体像を示した上で、明らかに機構・組織・制度まで、言及した本は見られないのではないかと思う。だからこの「日本改造計画」を読むと、「改訂・日本改造計画」でも書いて・・なんて思う。
武村 正義「小さくともキラリと光る国」も、当時国民総中流時代で、経済が強くとも、政治的には閉塞し、全てが扁平だったような時代に、このタイトルは魅力であった。
ポピュリズムに迎合せず、骨のある本を出す人がいてもいいのじゃないかな。・・いまやそんなの売れないか?
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