2011年11月23日水曜日

美しい国へ


「・・美しい・・国へ」というタイトルを聞いたとき、個人的にはショックであった。
というのも、「美しい」という言葉が、私の建築研究・思考のひとつのテーマだったからである。
もう一つの理由が、政治家が、この不確かな、「美しい」という言葉を使う危さゆえである。

「美しい」建築でなければ、建築は決して残らない、長く使われない、と考えたのが、「美しい」を考え始めた、その理由である。
建築にとって、「美しい」とは最も古めかしいテーマであり『ローマ時代の建築家、ウィトルウィウスが著した、現存する最古の建築理論書「建築書(建築論、建築十書とも)」によると、用(utilitas)・強(firmitas)・美(venustas)を兼ね備えることが求められる』wikipediaよりとされ、西洋建築史の桐敷先生の授業でもそう習った記憶がある。
しかし、近代建築においては、用・強に徹することが、美を生み出す、とされた。すなわち、計画と構造・ディティールに徹すれば、生みだされる建築は、美しくなるのは必然である、とも解される。
その後、ポストモダンのモダンのムーブメントは装飾の復権であろう。デ・コンストラクションは、規定の構造の見直し。プログラミングなどの考え方の潮流は、計画の見直し、経済的視点の導入と解されまいか。環境配慮の建築もひろい意味では、計画の一環である。近年のPCによる複雑化・曲体の建築は、また、別の範疇に・・新たな潮流ではないかと思うのであるが・・これは別に良く考える必要があるように思う。
いずれにせよ、現在でも、実務に入ると、「用・強に徹することが、美を生み出す」という考え方は絶大である。設計者側にのみ絶大なのではなく、発注者・施工者に絶大な支持があるのである。

そして、その近代の思想によって生み出された、現代の建築・都市が、現在美しくなったか?といえば、答えはノーではなかろうか。
東京を見渡せば、高層ビルが見事に乱立する。朝日新聞の音楽展望で高層ビル群を墓標である渡渉していたのを思い出す。
(改めて調べてみると「だが、ここ、東京・六本木の高層ビルからの眺めは、私にそれを許さない。この醜悪な茸の群れのような建物の墓石が私の前に立ちふさがっているのだ。」音楽展望 吉田秀和(朝日新聞20/07/2009の記事)
地上に降りて、そのビルを見上げてみると、石・ガラスという高価な材料が不断に使われているのだが、どこか薄っぺらい。
地方に目を向ければ、商店街はシャッター街ばかりで、幹線道路沿いは看板建築のオンパレード、住宅街といえばこれまた、メーカー住宅と分譲住宅の軽るーい住宅が立ち並ぶ。せめて公共建築はと目をやれば、これまた都会のビル建築と変わらぬ高価であるが薄っぺらい、全国どこも金太郎飴だ。
悪口ばかりだが、近代建築の美しい建築も多い、しかしながら、作られた全体像としては、決して美しい街・建築とは、到底言えないのが実体であろう。

そのように考えると、「美しい」とは、「何か」から問い直さねばならないのである。
とりあえず、インターネットの検索見ない時代、ヘーゲルの「美学講義」あたりから、「美」をテーマにした本をとぼとぼ読み重ねてきたのであるが、・・皆さんのご期待通り、やっぱり「よくわからない!」。そんな明確な答えはない。以前より、建築をテーマにぼんやり自らの美しい建築とやらの像見出しているような気はするのだけれど・・。
だから「美、美しい」というのは人類にとって永遠のテーマなのであるのだと。

そこで、政治家 安部晋三の「美しい国へ」である。
私は、具体的な国土政策として、「美しい」国土を動作るかという、建築・土木・経済にも踏み込む、提言の書かとも、早合点した。
さらに、保守本流、過激に言えば右派本流の安部晋三が、「美しい」という使うと、どうも太平戦争当時、「美しい日本のために」といって動員された兵士(体験がない世代だからその日本軍の宣伝映画でによって、たぶん記憶に結び付けられているのであろうが)を想像し、どうもこの本に対するアレルギーが出てしまっていた。
そんなことで、興味はあったが、この本から意図的に避けていてしまった。といって、出版が2006年(平成18年)であるから、すでに7年も前、例によって、古本屋さんで並んでいるのを見て読んでみようかなと。
これが、この本を手に取ったきっかけである。

(前段が、ながくなってしまった!これから本論?)
読んでみると、まったく、期待したものとは外れていた。
「美しい」という言葉が出てくるのは、ただ1ヶ所。最後ページ、「私たちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国だ。そして、まだまだ大いなる可能性を秘めている。」(p228)。
前段は、祖父岸信介の思い出と本人の体験に基づきながら、彼の系譜と国家像・日米同盟と、保守本流のお決まりの話が続く。そして中国・アジアの現状解説。後段は、サッチャー・レーガニズムを基礎とし、少子国家像として年金の話と、旧来の家庭の再生を基本とした教育再生の話というところか。家庭の再生も観念論で、新鮮味がないような・・こんな話はPTAに関わったことでで飽き飽きしている。
年金では、「年金一元化で官民格差をなくす」と、教育では「競争がフェア」な社会と「再チャレンジ可能な社会」が、目を引くところか。といって、いまや新機軸でもないと思いますが・・。
と、いう感じで、イメージ・私の思い込みは見事に裏切られたのです。

安部内閣が発足当時、テレビの討論会などで、首相の日本の設計図として、この本をテレビキャスターも一緒になって、持ち上げて議論・宣伝していたよう記憶があるのですが、なんだったんだろう?って思ってしまうのです。
なぜって、そこには具体的な提言は、ないといってもいいんじゃないかな。つまり、組織をこのように変えてとか、制度をこの目的のためにこのように変えてとか、見えないのですから。

小選挙区制によるポピュリズムの上昇気流にうまく乗った小泉政権に続く内閣として、発足した安部政権。いま、読み直すと、あまり深いことには関わらず、なにやら、ポピュリズムを意識した著作のようにも思える。

蛇足、政治家本
政治家の書いた本を私の書棚から探すと三冊。

新・都市土地論 菅 直人 1988/12  
日本改造計画 小沢 一郎 1993/5/21
小さくともキラリと光る国・日本 武村 正義 1994/01

これらは、私が勤め始めて数年の頃、政治家の本が少しはやった時期かと思う。田中角栄の日本列島改造論を除けば、政治化が本を書くなんてしなかった頃、ちょっと私にとっては鮮烈であった。
なぜかって、著作で自分の国家のビジョンを描いてそれを説く。それって、すごくすばらしいことと思えた。国会の方便や、演説だけでは、全体像なんて、よくわからないじゃないですか。政治家なら国の設計図をきちんと提示すべきでは、ってね。
建築家もそうあらねばならぬ!なんて、思ったりした。今でも、そう思ってるんですけど。
そして、今思えばバブル経済絶頂期なんですね。
はじめの著者 菅 直人は、首相まで上り詰め、無能者扱いをされて降りてしまった。その真の評価は、歴史にゆだねるか、ゆだねるまでもないかは・・どうでしょう。
そのタイトルは「新・都市土地論」土地が高騰したバブル期で、タイムリーなテーマといえばタイムリー。しかし、・・首相になって批判されてのは「市民運動化上がりで、ビジョンが見えない」ってことだろうから、テーマが確かに国家の設計図としてはあまりにも狭すぎで、今を暗示していたかもって。
次は小沢 一郎。裏金・献金、寝業師というダーティーなイメージいまや定着しちゃった。でも、小沢氏を押す声があるのは、やっぱりこの一冊「日本改造計画」なんじゃないかと思う。
題名からして師匠の日本列島改造論の延長上にあるのかも知れないが、国の目標・方向性を示して、機構・組織・制度をどのように変えたいのかまで、踏み込んでいる。いま、読み返してみると、提案されてた小選挙区制は実現したが、結果は失敗しているようにも思えるし、機構・組織・制度も今ひとつはっきりしていないようにも感じる。
でも、全体像を示した上で、明らかに機構・組織・制度まで、言及した本は見られないのではないかと思う。だからこの「日本改造計画」を読むと、「改訂・日本改造計画」でも書いて・・なんて思う。
武村 正義「小さくともキラリと光る国」も、当時国民総中流時代で、経済が強くとも、政治的には閉塞し、全てが扁平だったような時代に、このタイトルは魅力であった。

ポピュリズムに迎合せず、骨のある本を出す人がいてもいいのじゃないかな。・・いまやそんなの売れないか?



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2011年11月20日日曜日

宇宙船地球号操縦マニュアル


「宇宙船地球号」というタイトルそのものが魅力的だ。宇宙飛行士になりたい子供に「そんな必要はない、君自身が宇宙飛行士なのだから」という、どこかの解説が頭にこびる付いていた。そんなフレーズはどこだろうと探してみると。
たぶん『私はよく、「宇宙船に乗ったらどんなだろう」と言うのを耳にする。しかし、答えはいとも簡単。「今、どんな感じだい?」だ。みんな経験しているじゃないか。私たちはみんな、宇宙飛行士なのだ。』(p045-046)であろうか。
そして、すぐ前のフレーズで「私は宇宙の進化を重視して、私たちのうぬぼれや近視眼や偏見や、そして無知一般から、自分たちを解き放つことが極めて重要だと考えている。」と、なぜ宇宙船地球号の宇宙飛行士と考えることが重要であるかを説明している。
そう、包括的・全体的・総合的思考が、この本の底流の思想ではないかと思う。
上のフレーズの前段では「いまや人間は、専門家としては、コンピューターにそっくり取って代わられようとしている。人間は生来の「包括的な能力」を復旧し、活用し、楽しむように求めれれているのだ。「宇宙船地球号」と宇宙の全体性に対処することが、私たちのすべての課題になるだろう。」(p043)とか、
上のフレーズの次章では「建築家とか計画家、とりわけ計画家は、専門家と位置づけれれてはいるものの、ほかの職能より多少は広い視野をもつ。・・・・だから、計画家の役割を引き受けて、できるだけ大きく、包括的な思考をはじめるのが、私たちにはふさわしいのである」(p050)など、
建築家・計画家への包括的思考のアジテーションが仕込まれているのである。
フラーの包括的思考の結果、「宇宙船地球号」のエネルギーの考察は、きわめて先見的だ。
p091では「太陽から貯める何十億年もかかった化石燃料を燃やして、そのエネルギー貯金だけに頼って生きるのか、あるいは地球の原子を燃やして私たちの資本を食いつぶして生きるのか、どちらにしても・・・無知、そして完全に無責任というものだ。」とある。前段は地球温暖化の問題、後段は福島原発事故の予言?
さらに宇宙船地球号のエネルギーに関してして、「太陽からの放射や月の引力が生みだす潮汐、風、降雨といった脈を打って生みだされるエネルギー(が)・・この「宇宙船地球号」の上に準備されてきたものだ」(p128)として、自然エネルギーの利用を前提としたうえで、
「私たちが原子炉からのエネルギーにもっぱら頼りん、自分たちの宇宙船の本体や装備を燃やしてしまう愚さえ犯さなければ、「宇宙船地球号」に乗った全人類の乗客が、お互いに干渉し合うこともなく、他人を犠牲にして誰かが利益を得たりすることもなく、この船全体を満喫することは十分現実可能なことだとわかっている。」(p128)としている。
福島原発事故で、宇宙船の日本部品の一部を焦がし、その後のエネルギー議論をかんがえると、フラーの予言はまさしく的中とも考えられまいか。
フラーの包括的思考は、経済的視点、富と価値にまで及ぶ。
実は私も、建築の設計で、その価値、もしくは何を要求されているのかを考えると、経済的視点、経済システムになかでの建築の立場にも興味を覚え、経済本も素人ながらチョコチョコかじっているのであるが、フラーがここでしっかりしているのには、合点がいった。
「私たちの経済会計システムは非現実的にも富を物質としてしか考えていないし、ノウハウは給与としてしか記帳されない。だから富の本質に関して、ここで私たちがお互いに発見しつつある全てのことは、共産主義でも詩品主義でも、社会にとってまったくの驚きなのだ。
・・・反エントロピーとしての富はシナジーを通して福利を生むが、そんな成長はこの地球上のどんな政治経済システムであれ、いまだまったく勘定にいらられていない。
・・・小額の特許権使用料は例外になるが、通常そんなものは無視される。発明の価値とか、ある製品が他の製品を補って、そのチームワークが膨大な利益をもたらすというような、そんな製品のシナジー的価値とかはまったく評価されない。」(p099-100)
このような富と経済に関する主張は、ここだけではない。この本全体にちりばめられ、「建築家・計画家への包括的思考のアジテーション」の主張の底流ともう一筋の底流をなしているとも見える。
確かに共産主義で言えば労働価値説が、思考・アイディアの価値を認めず、労働時間にのみ労働の価値を置いたことが、そもそもの失敗の原因であろうし、一方、資本主義では、限界効用論が思考・アイディアの価値を、価格(価値)へと変換できるという前提ではあろうが、実際は、生産の上流での思考・アイディアの価値は、フラーの主張の通りほんのわずかであり、製品・物となった時点で、初めてその物に近くに関わった人に集中的に利益が配分されているのが、いまの世界経済ではなかろうか。
「設計」とは、その生産の上流での思考・アイディアの価値であり、その価値の評価が惨憺たる現状が、私のフラーの富と価値への主張のシンパシーを感じる理由なのだと思う(凡人は、やはり下世話なのですが・・)。しかし、フラーは、さらに、思考・アイディアが、システム化され互いに組み込まれることにより、福利的に価値・富は増大し、「宇宙船地球号」を救う富となるのだと・・
しかし社会が専門家・高度化が進む現在、フラーは、どのような領域を網羅し、総合てき思考をしたのか。
第6章シナジーの冒頭「では、トポロジー、ジオデシックス、シナジェティクス、一般システム理論、そしてコンピューターが使うピッティといった強力な思考道具を使って、現在の世界が抱える問題を取り組んでいくことにしよう。」(p077)
何のことややら、さっぱりわからない。
巻末の注釈では、フラーの著書『ユートピアか、忘却か』(1969)にあげてある、デザイン・サイエンスのカリキュラム案の11項目、1972年公表の「デザイン・サイエンス・インスティチュート設立計画案」研究対象の6分野があげられていて、・・到底無理なのは目に見えている。
それならば、「建築家とか計画家」は、専門家に徹し、全ては、共同作業のひとりとして徹し、結果の全ては現在の市場原理のお任せすれば良いのであろうか。
それでもフラーは最後まで主張する。
「世界で対立する政治家たちやイデオロギー・ドグマの袋小路が増えつつある今、一体どうやってこれを解決したらいいのか、・・・それはコンピューターによって解決される。」(p138)
「そう、だからイニシアティブをとるのは計画家であり、建築家であり、技術者なのだ。仕事に取り掛かって欲しい。とりわけ共同作業して、互いに抑制し合ったり、他人の犠牲で徳を得ようのどとはしないで欲しい。そんな偏った成功は、ますます先の短いものになるだろう。」
政治までもコンピューターが解決するとでも言うのか!でも待て、インターネットによるアフリカの革命の動きなどは、あながち、間違ってたとでもいえないのではあるまいか。
このところ建築家・計画家は、どうも専門家になりすぎているのではなかろうか。1960-70年代には、都市を語っていた建築家は、そこから総員撤去。代わって訪れたポストモダンの潮流は、歴史的形体を引用した形態操作と内向きの、思考形式となってしまった。その上、計画すること自体が罪悪というべきものとなり、建築家は、計画自体も、他者に全てをゆだねる事態となったように思える。他者とは、民意や顧客満足(カスタマー・サティスファクション)であり、背後に隠れた計画専門集団である。
ポストモダン以降も、デコンストラスションのムーブメントなど、いくつかのムーブメントがあり、現在に至っていると思う。しかし、そのポストモダンのコラージュ手法自体は変わらず、形体操作の対象が、歴史的建造物から、もっと身近な近代建築・現代建築・この直近の建築へと移行しとだけで、形態操作によると内向きの自己満足的・日和見的思考形式は、変わっていないのではないかと思う。
しかし、コンピュータが目覚しく発達し、PC内で作成される仮想現実のプロジェクトが、自由にかつ、よりリアルに表現され、様々なツールが提供されつつある今、建築は変わろうとしているのではないかと思う。
とりわけここに及び、海外の建築家の設計した建築形態・アニメーション・cgを見ていると、コンピューターのモデルによる可能性がどんどん開けているように思える。
今、「建築家とか計画家」は、アイディアを、コンピューターを駆使して、総合的に再構築し、提案するという、本来の「建築家とか計画家」の職能を、再び発揮するときではなかろうかと思う。
そこには、また、さらに上を行こうとする超専門化集団の壁が立ち並んでいるであろうが、生来の「包括的な能力」を復旧し「建築家とか計画家」は、立ち向かうべき時と思うのである。

追記
薄い本であるし、もっと簡単に書こうと思ったがつい長くなってしまった。
「宇宙船地球号操縦マニュアル」というタイトル自体が、子供にも受けそうな、魅力的なタイトルだ。中学生の塾の推薦本にも取り上げられていたりして。とりわけ男の子なら言葉自体にわくわくします。
読んでみると、内容は深い。っていうか、いろんな切り口から読むことが出来るのではないかと思うのです。
フラーの本は「テトラスクロール」しか読んでいないので、まったくえらそうなことはいえませんが、・・フラーの視点があまりにも広いので、この本について、書こうとしたら、まったく悩んでしまった。
で、もう一度、読み直して、今の僕の視点で、切り込んで書いてみました。いろんな視点から、切り込んで読める本ではないかと思います。


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