一年前、実家に帰って、暇に任せて父の書棚から、本を探り 書き込んだのであるが、今回もこのパターンで・・。
東北大震災もあり、春の帰省をしていなかったこともあり、しばらくぶりの帰省であった。同様、本棚を見て目にとまったのが、この本「戦艦武蔵」。
前職の設計事務所に勤めていたとき、上司と設計の話をしていたとき、この本が出てきたのを思い出した。・・確か、設計の分担方法、つまり設計をどのように分割して作業するかという、話していた時の過程で、出てきたような・・記憶は定かではない。
まあ、それと子供のころ、友達の家に言って、戦艦武蔵のプラモ(1/700 ウォーターラインシリーズ No.114 日本海軍 戦艦 武蔵 31114 )を見て、大和とどんなに違うのであろうとも、思ってこの本を手に取る。
最初から、全国から棕櫚の縄が消えていることから入る。意外な展開で・・でも、すごく小説らしいつかみ。他の書評を見ていると、よく知られるところのイントロらしい。
一瞬、もやい綱とも思ったけどそんなに多くはないだろうし、碇を吊るロープ?バカな、それって巨大なチェーンだったような。実は、建造中の武蔵を外部から見えないように隠すためのシートをためで、棕櫚の原料を買って、さらに棕櫚ロープの製作機械まで買って、さらに棕櫚を編みこみ作ったという。そういえば、覆いのかけられた建造中の武蔵のイラストを子供のころ見たのを思い出した。
ところで大和と武蔵の違いって、1番艦と2番艦だって。つまり、武蔵は大和のまったくのコピーらしい。呉海軍兵工廠(軍直営工場)で、大和を作り、その設計図をそのまま三菱重工業長崎造船所に持ち込み作ったらしい。厚さ40cm(?確か)の鉄板やら他の材料、砲塔砲身も、呉海軍兵工廠から支給され、まったくのコピーのようだ。船って、どんなに大きくともコピーして作れるんですね。それだけ海って広くて制約がないってこと?
それに比べて建築きたら、住宅でさえコピーできない。そういえば一つあった!日建設計の千葉ポートタワー(1986年)、福岡タワー(1989年?)、秋田ポートタワー・セリオン(1994年)は同じジャンと思っていたら、よく調べてみると違いました。平面形状が、ひし形、三角形、星型と、違っていました。広い敷地にぽつんと建つタワー建築でも違うんですね。
戻って、大和と武蔵の違いは、官営と民営の違い。
それと、作り方の違いがある。空掘りドック(乾ドック)と船台式ドックがあって、呉海軍兵工廠は前者、三菱重工業長崎造船所は後者。後者は地上の斜めの船台で作って、最後は一気に海にすべり落としちゃうと言う方法。馬鹿でかくて、止まらすぶち当たらないよぷにするにはどうするか、木製の船台は最後までたえれれるかなど、大和とは違う問題があったようだ。それに、造船所の地形の問題もあった。長崎は周辺が山で囲われ、よく見える。そこには住宅地が形成され英国の公館もあると言う。その上で巨大戦艦のの建造を隠し秘密とでよ!と言うのだから海軍の今考えると尋常ではない。
これを解決したのが、ガントリークレーンを利用して棕櫚製のスクリーンを取り付けることであった。わらや布など様々な材料でも試したようだあるが、風圧・耐久性・防炎性能を実験し棕櫚縄を選択。これで、冒頭の棕櫚の話が見えてくる。さらに作る前の話では、戦艦受注まえの、さらにその戦艦の仕様が機密で、なにやらとてつもない戦艦のようだという話の段階で、ドックの基礎を補強し、岸壁を整備するのである。ここまでしないと役所の受注は取れない?これは、いまも変わらないのかもしれない。
いかに作るか、と言う執念。これは、建築で言えば、ゼネコンの本領発揮の部分であり、ゼネコンの本分でもある。ここら辺は、日本産業界の伝統的強みなのかなとも思う。
変わって、設計の話に目を向ける。
設計そのものの記述はあまりない。武蔵は大和のコピーなので、設計の話となると大和の話となるから当然なのでしょうが。しかし、軍縮会議で艦船の製造中止が決まり、建造中の土佐が、砲撃標的実験の的となり、その実験の結果、海中部分の側壁を厚さ40cmの鉄板とした話には、鉄板の厚さ自体が驚きであったし、廃棄艦をただくず鉄とせず実験体として利用して、その成果を出していることには、なるほどと思った。また、防水隔壁も細かく作られ、一つの隔壁が破壊されても注水のよるバランスが取れるようにしてあったり、スクリュー・舵を放して設置し、一つが壊れてももう一つが生きるようにデザインされいする。さらに、巨大主砲の風圧に甲板上のものは耐えてないため、付随する小型艦艇・偵察機は船体内部に格納されていたり、甲板上の銃器は風圧シールドが取り付けられていたりする。
設計上は誰をもうならせる当時の設計なのだろうと感じた。かつて作ったプラモを思い出し、なるほど!って。
しかし設計の記述の多くは、いかに設計の機密を保持するか。呉から送られた図面は、所定の部屋から外には絶対出さないようにされていた。無論、製作で必要な部分の製作図は作成するのだが、全体がわからないよう作成され、それも厳しく管理・回収されていた。
そんな中、図面担当配属の優秀な少年が、その図面1枚を、単調でプレッシャーのかかる作業のなか、いたずら心にその図面1枚を廃棄してしまう。大問題となり、この少年は誰も知らないうちにこの工場を去らされたと言う。
そんな少年も戦争犠牲者なのであろう。私自身、公共建築に携わった祭、コピーやさんへ青焼きを外注したら、そこから図面情報が漏れたかもしれない、と言って、上司から大目玉を食らった経験を思い出した。こんな比ではないのだが、設計の情報機密の大切さを、思い出されたシーンであった。
そんなこんなで浸水、偽装・内装を終え、引渡し直前となるのであるが、ここからが民営の本領発揮らしい。
艦船、それも2番艦であるがゆえ、大和の反省も加え、多くの偽装変更が行われたようだ。変更は、艦船の特徴でもあるし、役所工事の特徴でもあるのかもしれない、とも思う。
さらに大和改良型ともなるわけで、大和の上位の仕様となり、冷暖房や内装の仕様が高級化される。ここら辺は、民間の得意領域だあることは、今も昔も変わらないのであろう。
これにより、武蔵が連合艦隊の旗艦となる。それが海軍の規定の路線なのであろうが・・。
海軍に引き渡された武蔵、ここで気になるのがそのお値段。今まで製造の過程を見ていると、今の視点で見ると、値段はあってないようなものに思える。準備工事費・改装工事費も膨大、むろん本体建造工事費も膨大であろう。ここで、三菱は、民間は利益を得るのが商売として、海軍を相手に、改装費用も含めて、しっかりいただいたようである。流石三菱!恐るべし三菱!
その後配備された武蔵はあまりにもふがいない。
トラック等に係留されてばかりである。『武蔵御殿』・武蔵ホテルと揶揄されたとされるが、高級な仕官室の内装・冷暖房完備を考えるとうなづける。他にも、動くと図体がでかいく、それだけ油を消費してしまうので、燃料が貴重な日本軍は、本当に有効な作戦以外は動けないと言いう、事情もあったようである。
とうとう出た最初の任務も、輸送が主な任務で、それも、甲板に積んでいた荷物が・・流された!んじゃなかったかな。
そして最後は、レイテ沖海戦で、大和と共に出陣。旗艦として、アメリカ軍に徹底的にマークされていたのだろうと思うが、最後は武蔵が徹底的に集中攻撃を受けたのだ。7回にわたるアメリカ空軍の攻撃に対し、空襲に備え改修で増設した高射砲のシールドを密閉し待ち受け、攻撃が始まると同時に一斉射撃、その静から動の描写は圧巻であった。その悲惨さ故にである。魚雷の命中によって浸水するも、防水区画を利用しポンプでバランスを確保し、また、前述の工夫された舵とスクリューの配置により機関室の一部喪失しても、ある程度の運動性能を確保して、7回もの攻撃に耐えてことは、設計の意図を十分発揮し期待通りの戦いぶりともいえるのかとも思う。
しかし、またもや残念なのは1回目の攻撃で前部主砲射撃方位盤故障により、主砲の一斉連続発射ができなくなった。結局、最後まで肝心の主砲は、航空機攻撃の効果は別として、ほとんど使うこともなく武蔵は最後を迎えたのであった。設計コンセプトであった主砲が、ほとんど使われずに終わる、なんともふがいない話ではないか。
ふがいなさでいうと、結局、大鑑主義と、航空母艦とその艦隊、レーダーシステムを含めた統合的運用がまったくできなかったことはに帰するのであろうが、こちらの詳細はは「失敗の本質」の方に詳しい。
ここで建築設計者の視点から見ると、武蔵の設計と艦艇製作力は、確かにすばらしい。一級品である。しかし、結局は、設計の前段の話し、「航空勢力の発達(後にはレーダーも加味しなければならないと思うが)により本当にこのような巨艦が必要だったのか」と言うことになってします。
設計の良し悪しもさることながら、その前段の、要求条件の整理で、製品の能力が決定してしまう。
いま大問題の福島第1原発であっても、想定外といっているが、結局どこまでを想定条件とする事としたかという問題であろう。どこまでを設定条件としたかにより、製品の性能はほぼ決まってしまうのだ。そして一度作ってしまうと、その設計前提条件を、根本的に変更するのは難しい。のらりくらりと設計条件を修正し、費用の許す範囲での修正しかできないのが、一般的であろう。原子力の場合、おいそれと原子力プラント事態を廃棄して、また作り直すこともできないので、さらに厄介なのだと思う。
「要求仕様の探求」こそが、重要であるのを改めて思い知らされる。「要求仕様の探求」の重要性は「要求仕様の探検学―設計に先立つ品質の作り込み 」(D・C・ゴーズ、G・M・ワインバーグ著)を是非おすすめする。
最後に書いておきたいのは、武蔵は沈没するも、沈没前に総員退艦命令がでて、実は2399名中、1376名が救出されている。艦長の冷静な判断があったように感じられた。しかし、生き残った乗組員は、フィリピンに配属される。一部は日本に送られようとするが船が撃沈され、フィリピンに残った将兵もマニラ市街戦で多くが戦死したという。生存者は結局、56名。
武蔵は、海軍で最も華麗な戦艦だあり、なんとも、痛ましい悲運の戦艦であった。そして、日本の戦い方を象徴する戦艦なのだろう。
この本は、読みやすくて、こんな僕でも2日弱で読了。歴史と設計のスタンスを改めて考えさせれれる1冊でした。・・感想文にしては長すぎ!!ですね。
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